「宝クジ=ギャンブル」だということを忘れてしまう理由
2016
27
こんにちは。
先日こんな会話をしました。
「宝くじ買ったんだ~♪」
「へぇ、当たるとイイね。でも、ギャンブルもほどほどにね。」
「宝クジはギャンブルじゃないよ!夢を買ってるんだよ!!」
・・・その分厚さは、ちょっと夢買い過ぎなのでは(←言ったら大きなお世話)
お金を賭けて、当たりが出れば賭け金以上のお金がもどってくる。
これをギャンブルと言わずして何をギャンブルというのか・・・。
といいつつも、夢を買っているという主張はわかります。
ワクワクしますよね。
・・・でも、やっぱり宝クジはギャンブルだよ。
しかし、それをわざわざキッパリ言うのも、ちょっと無粋な気はするしなぁ。
ではなぜ、宝くじ=ギャンブルだということをしばしば忘れてしまうのでしょう?
その理由の一つにタイムラグがあります。
「夢を買う」
という言葉を宝くじ購入者からよく聞きます。
そして、私も買ったことあるので、その気持ちよくわかります。
それでは、私たちはいったいいつ「夢」を見ているのでしょうか?
夢見るのはいつか?
それは間違いなく、買ってから当選発表までの間です。
その間、当たったらどうしようとか、どういう風に使おうとか夢想するわけです。
そして、アタリ発表と同時に大半の人は夢ヤブれる。
1等前後賞が当たる、と本気で確信している人はいません。
期待はしても、はじめからハズレて損するだろうことはどこかでわかっています。
だからこそ、「夢を買う」といいます。
私たちはウン億円そのものではなく、クジ購入から当選発表までの時間を買っているのです。
宝くじ(夢)を買う=ワクワクする時間を買う、と同義なのです。
「時間を買う」こと自体はギャンブルではありません。
例えば、喫茶店ではおいしいコーヒーといっしょにあの静かでゆったりとした時間を買っています。
私たちは、当選発表までのタイムラグにより時間を買うという意識をもつことができます。
時間を買っているなら、ギャンブルではないという気分になります。
これこそが、「宝クジ=ギャンブル」だということを忘れてしまう理由の一つと言えるでしょう。
他にも理由があります。
それは宝クジの歴史です。
なんと、宝くじは富くじという名前で江戸時代から存在しています。
これだけ昔から親しまれていると、ギャンブルという感じがなくなってきます。
なぜならギャンブル→後ろめたいもの、という図式が一般的にあるためです。
昔から親しまれている→後ろめたくない→ギャンブルじゃないんジャネ?
という連想ゲームみたいなものが発生しているのです。
実際に年に一回宝くじを買ったりするのは、後ろめたくありません。
また、大々的なCMや当選発表のテレビ放送などの影響もあります。
売り場の前に長蛇の列をなす様子は、もはや一つの文化(?)という感じです。
(外国だと特定の売り場に並んだりしない。)
これもまた歴史のナセるワザ・・・といえるかもしれません。
最近寒くなってまいりました。
寒いなか並んで宝くじを買うつもりが、カゼ菌に「大当たり」
なんてことがないよう、防寒には注意してくださいませ。
それでは。
先日こんな会話をしました。
「宝くじ買ったんだ~♪」
「へぇ、当たるとイイね。でも、ギャンブルもほどほどにね。」
「宝クジはギャンブルじゃないよ!夢を買ってるんだよ!!」
・・・その分厚さは、ちょっと夢買い過ぎなのでは(←言ったら大きなお世話)
宝クジはギャンブルだよ
お金を賭けて、当たりが出れば賭け金以上のお金がもどってくる。
これをギャンブルと言わずして何をギャンブルというのか・・・。
といいつつも、夢を買っているという主張はわかります。
ワクワクしますよね。
・・・でも、やっぱり宝クジはギャンブルだよ。
しかし、それをわざわざキッパリ言うのも、ちょっと無粋な気はするしなぁ。
夢を買う、夢を見る
ではなぜ、宝くじ=ギャンブルだということをしばしば忘れてしまうのでしょう?
その理由の一つにタイムラグがあります。
「夢を買う」
という言葉を宝くじ購入者からよく聞きます。
そして、私も買ったことあるので、その気持ちよくわかります。
それでは、私たちはいったいいつ「夢」を見ているのでしょうか?
時間差に見る夢
夢見るのはいつか?
それは間違いなく、買ってから当選発表までの間です。
その間、当たったらどうしようとか、どういう風に使おうとか夢想するわけです。
そして、アタリ発表と同時に大半の人は夢ヤブれる。
1等前後賞が当たる、と本気で確信している人はいません。
期待はしても、はじめからハズレて損するだろうことはどこかでわかっています。
だからこそ、「夢を買う」といいます。
私たちはウン億円そのものではなく、クジ購入から当選発表までの時間を買っているのです。
宝くじ(夢)を買う=ワクワクする時間を買う、と同義なのです。
「時間を買う」こと自体はギャンブルではありません。
例えば、喫茶店ではおいしいコーヒーといっしょにあの静かでゆったりとした時間を買っています。
私たちは、当選発表までのタイムラグにより時間を買うという意識をもつことができます。
時間を買っているなら、ギャンブルではないという気分になります。
これこそが、「宝クジ=ギャンブル」だということを忘れてしまう理由の一つと言えるでしょう。
宝クジには歴史がある。
他にも理由があります。
それは宝クジの歴史です。
なんと、宝くじは富くじという名前で江戸時代から存在しています。
これだけ昔から親しまれていると、ギャンブルという感じがなくなってきます。
なぜならギャンブル→後ろめたいもの、という図式が一般的にあるためです。
昔から親しまれている→後ろめたくない→ギャンブルじゃないんジャネ?
という連想ゲームみたいなものが発生しているのです。
実際に年に一回宝くじを買ったりするのは、後ろめたくありません。
また、大々的なCMや当選発表のテレビ放送などの影響もあります。
売り場の前に長蛇の列をなす様子は、もはや一つの文化(?)という感じです。
(外国だと特定の売り場に並んだりしない。)
これもまた歴史のナセるワザ・・・といえるかもしれません。
最近寒くなってまいりました。
寒いなか並んで宝くじを買うつもりが、カゼ菌に「大当たり」
なんてことがないよう、防寒には注意してくださいませ。
それでは。