他人の痛みなんてわかりっこないから、知ったような口を利きたくない
2016
19
こんにちは。
ここ1週間ほど腹痛でのたうち回ってました(笑)。
ノロとかではないですよ。
動けない時間で(のたうっていたのだから、動いてはいるかも)つらつらと考えたことをせっかくだから少しだけ書いてみます。
腹痛も十人十色です。
私の腹痛とあなたの腹痛では、痛み方は違うはず。
かくいう私も、今回は痛みの方向性みたいなものがちょっと違いました。
腹痛でさえ、人で違うのです。
他人の痛みなんてわかりっこない。
わからないのは、痛みだけではありません。
むしろ、すべてです。
他人の中身なんて想像しかできないので、ほとんどフィクションと同じです。
そのフィクションをノンフィクションと錯覚してしまうと、途端に面倒くさい人になる。
私は、人のフィクションの作り方に注目します。
そして、適当にレッテルを貼って、ノンフィクションと錯覚しているような人とはできるだけ距離をとります。
一度やっかいなレッテルを貼られると、そうそう剥がれないので、自分の情報をできるだけ与えたくないのです。
自分のことを分かってほしくない。
とはいっても、私は知ったような口を利きたくないので、自分の認識していることはあくまでもフィクションであると思っています。
その方が、腹が立たない。
あの人はレッテルを貼っている、というレッテルを貼らないようにした方が、精神衛生上良いのです。
自分のフィクションがノンフィクションに近いということがわかると、人はどうやらうれしいようです。
逆に、ノンフィクションと錯覚していたものがフィクションであるとわかると、大抵の人はイライラします。
期待を裏切りやがって、みたいに。
どうやら、フィクションの真贋というのは、人によってはかなり重要なことみたいです。
人の中身だけではなく、確定的ではない様々なもの、例えば信念とか信仰などは確かに重要でしょう。
なので、他人の大切にしているフィクションを踏みにじらないように、慎重に接しなければいけません。
それが、私にとっては、とても疲れるのです。
さらに、そのフィクションに共感してあげればきっと喜ぶだろうということが分かっていても、私はそれをあまりしたくありません。
それはきっと、疲れるというだけではなく、私にも私のフィクションがあるからなのでしょう。
でも、フィクションは所詮フィクションだよな、なんて思っている私は共感とかどうでもいいと感じています。
いや、これはもうフィクションとかの理屈抜きで、物心ついたときからそんな感じです。
困ったことに、そのせいか、コミュニケーション能力とか社交性といったものが私には欠けています。
むしろ、ほぼゼロです。
というわけで、こういう性格なので、私は黙って彫金していることにします。
また、余計なことを考えてしまいそうです。
それでは。
ここ1週間ほど腹痛でのたうち回ってました(笑)。
ノロとかではないですよ。
動けない時間で(のたうっていたのだから、動いてはいるかも)つらつらと考えたことをせっかくだから少しだけ書いてみます。
他人の痛みなんてわかりっこない。
腹痛も十人十色です。
私の腹痛とあなたの腹痛では、痛み方は違うはず。
かくいう私も、今回は痛みの方向性みたいなものがちょっと違いました。
腹痛でさえ、人で違うのです。
他人の痛みなんてわかりっこない。
知ったような口を利きたくない
わからないのは、痛みだけではありません。
むしろ、すべてです。
他人の中身なんて想像しかできないので、ほとんどフィクションと同じです。
そのフィクションをノンフィクションと錯覚してしまうと、途端に面倒くさい人になる。
私は、人のフィクションの作り方に注目します。
そして、適当にレッテルを貼って、ノンフィクションと錯覚しているような人とはできるだけ距離をとります。
一度やっかいなレッテルを貼られると、そうそう剥がれないので、自分の情報をできるだけ与えたくないのです。
自分のことを分かってほしくない。
とはいっても、私は知ったような口を利きたくないので、自分の認識していることはあくまでもフィクションであると思っています。
その方が、腹が立たない。
あの人はレッテルを貼っている、というレッテルを貼らないようにした方が、精神衛生上良いのです。
だからこそ、共感を得ると気持ち良い人が多い。
自分のフィクションがノンフィクションに近いということがわかると、人はどうやらうれしいようです。
逆に、ノンフィクションと錯覚していたものがフィクションであるとわかると、大抵の人はイライラします。
期待を裏切りやがって、みたいに。
どうやら、フィクションの真贋というのは、人によってはかなり重要なことみたいです。
人の中身だけではなく、確定的ではない様々なもの、例えば信念とか信仰などは確かに重要でしょう。
なので、他人の大切にしているフィクションを踏みにじらないように、慎重に接しなければいけません。
それが、私にとっては、とても疲れるのです。
さらに、そのフィクションに共感してあげればきっと喜ぶだろうということが分かっていても、私はそれをあまりしたくありません。
それはきっと、疲れるというだけではなく、私にも私のフィクションがあるからなのでしょう。
でも、フィクションは所詮フィクションだよな、なんて思っている私は共感とかどうでもいいと感じています。
いや、これはもうフィクションとかの理屈抜きで、物心ついたときからそんな感じです。
困ったことに、そのせいか、コミュニケーション能力とか社交性といったものが私には欠けています。
むしろ、ほぼゼロです。
というわけで、こういう性格なので、私は黙って彫金していることにします。
また、余計なことを考えてしまいそうです。
それでは。